2013年3月31日日曜日

書の鑑賞や、より良い作品づくりに『画の六法』


中国絵画の批評基準『画の六法(りくほう/ろっぽう)』は、現存最古のまとまった中国画論です。南斉の謝赫(しゃかく)が系統立てした、鑑賞技法・鑑賞基準・格付け基準と考えてよいでしょう。

中国画では、現在でも大きな影響がある考え方ですが、「書」にも通ずるところがあります。


一、気韻生動:迫真的な気品(生命の流れとリズム)が感じられるか。(→書品)
二、骨法用筆:明確な描線で対象を的確にあらわすこと。(→用筆)
三、応物象形:形体を的確にあらわすこと。(→結構)
四、随類賦彩:色彩感を的確にあらわすこと。(→墨色)
五、経営位置:画面の構成力。コンポジション。(→章法)
六、伝移模写:古画を模写すること。最良の伝統を身につけたか。(→臨模・臨書)


一から六までの段階で、「気韻生動(書品)」が一番上にあります。

鑑賞者の時に「なんか気持ちいい」とか、美しさを感じる時にはこれが達成せれている作品ということになります。

一方、作者の場合は、初学者は「伝移模写(臨模・臨書)」の段階から入ります。途中の順序は人それぞれに異なるかとも思いますが、最終目標は、鑑賞者の心を動かす「気韻生動」になります。
これに至るまでに、臨書を繰り返し、画面の構成をつくり、墨色、結構、用筆を吟味し、ひとつの完成された作品となっていくわけです。

作品制作で行き詰まった場合などでも、制作者のひとつの「ものさし」になるようにも思えます。「一生懸命努力して書いたが、何かひとつ足りない…」といったことを思うことは、多々あるかと思います。...わたしなどは、上手くいかないのを筆のせいにしたり…と乱暴なことをしてしまうのですが(汗;)、この六法を「ものさし」として当ててみると、例えば、「用筆にこだわり過ぎて、結構がおろそかになっている」といったことに気づくのが早いかもしれません。

多くの場合、鑑賞者に一番訴えかけるものは、「経営位置(章法)」にあるように思えます。作品全体を構成してる文字の大小・配置・墨の潤渇、落款の位置などが一番最初に鑑賞者の目に入るものです。作者の注力した部分を見てくれるといいのですが、なかなかそういうわけにはいかないものです。自分の作品を半年とか数年後に見直してみると、書いてる時の気持ちと、作品が訴えかける気持ちが全然違うという経験からもわかるかと思います。

名作を鑑賞するにも、他人の作品を鑑賞・評価するにも、自身の到達度を認識するにも、この「六法」はなかなか使い勝手が良いように思います。

「みんなが良いというから...」とかではない、「自分のものさし」で作品を鑑賞し、制作できるとよいですね(^^)

2013年2月27日水曜日

『千字文』について

『千字文(せんじもん)』は、四字一句の250句からなり、一文字も重複もない1000字で構成された韻文です。梁の時代の周興嗣(しゅうこうし)が作ったとされています。

千字文の内容は、天文・地理・政治・経済・社会・歴史・倫理などついて述べられていて、王子達が書を学ぶために作られたものと云われています。

雲海堂のTwitterでは、この『千字文』をBotにして、定期的につぶやくようにしています。
今のところ、1時間おきに「2句と口語訳」をつぶやいています。
...夜中はお肌に悪いので、0時~7時はつぶやかないようにしています。

底本としているのは、『千字文』(小川環樹・木田章義著、岩波文庫)です。


千字文 (岩波文庫)
千字文 (岩波文庫)
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小川 環樹 木田 章義
岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を見る


「天地玄黄 宇宙洪荒」(千字文 1,2)は、口語訳では「天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としてる。」となります。

書籍には、和読(多くが文選読み)が掲載されていて、「テンチのあめつちは クヱンクワウとくろく・きなり。ウチウのおほぞらは コウクワウとおほいににおほきなり。」という読み方になっています。この文選読みは、まず漢語を音読し、次に訓読する読み方で、奈良時代末期から平安時代頃の僧侶らによって始められたものではないかと云われています。

現代では、ほとんど見られない可笑しな試みとも言えないことはないですが、慣れるとなかなか面白く読めたりします。

『千字文』の成立については諸説あり、諸説についてもこの本に書かれています。語にについての解説や出典などもわかりやすく、読み飽きない本です。

著者らの若かりし頃の思い出話しなどもあり、単なる解説書ではなく、著者らの「人となり」までうかがえる良書と思います。

巻末には、智永の『真草千字文』(国宝)も掲載さています。

座右に是非!

2013年2月13日水曜日

自由で素朴で大胆な『木簡』

木簡
もっかん
木簡

時代:秦、漢から晋代頃(約2000年前頃) 
筆者:不詳(多数)
書体:木簡隷など

 20世紀初頭に、スウェン・ヘディン、オーレル・スタインらによって中央アジア地方から、漢代から魏晋にいたる大量の肉筆資料が発見されました。

 西域地方探検で、新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅、甘粛省敦煌などで発見された木簡は、前・後漢、晋のもので、900点以上(竹簡もあり)。その後も発掘が行われ、20世紀後半にもさらに多くの木簡が発見され、100万点を超えるともいわれています。

 西域(甘粛省から新疆ウイグル自治区の天山南路に通ずる地方)は、交通の要所でした。木簡・竹簡は、当時の軍事、政治、社会状況などをうかがえる資料であるとともに、書道では、漢代の人の肉筆として、文字・書体・書風の研究に貴重な資料となっています。

 漢代の一般的な簡牘は長さ約23cm、皇帝用の簡牘は約25cmと、写経用には約55cmと、用途に応じた定型で作られいて、文章が長くなるときには、つづりあわせて冊(編綴簡)にしていたようです。


 木簡の特徴は、特に能筆家が書いたものではなく、その表現は自由・素朴・大胆で野生に富んでいます。秦篆から漢隷(八分)に移った形跡が明らかで、点画の省略が見られ、この時代すでに、後の行・草書体や楷書体の形態が既に発生していたことが認められ、篆・隷・楷・行・草の各体が大胆かつ自由に書かれ、各種書体が入り混じっている。


書風も様々な木簡
波磔らしきものも見られます
【関連書籍】






木簡の書法
木簡の書法
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鶴木 大寿
日貿出版社


木簡は、名筆・名蹟といわれる部類ではないので、臨書をするにもいろいろな捉え方があって良いと思います。自由で大胆な書作品ができると思います。

2013年2月11日月曜日

素朴な趣の漢代の古隷『魯孝王刻石』


魯孝王刻石
ろこうおうこくせき

魯孝王刻石
時代:漢・五鳳2年(B.C.56)
書者:不詳
書体:古隷
現存:山東省曲阜 孔子廟

 五鳳二年刻石(ごほうにねんこくせき)とも呼ばれ、木簡などが発見されるまで、この刻石は前漢の最も古いものとして有名でした。

 前漢の宣帝時代、五鳳2年(B.C.56)に、魯の霊光殿内部の建築竣成を記念して刻したもので、「五鳳二年 魯丗四年 六月四日成」と3行、13字が刻されています。

 金の明昌2年(1191)に魯国の旧郡、山東省曲阜縣靈光殿址で出土した石刻で、現在は曲阜の孔子廟に現存しています。

 書風は、波磔を極力おさえた素朴な「古隷」の代表挌と称され、古来より篆書体から隷書体への過渡期にある書といわれてきましたが、木簡をはじめとする数多くの新出土の肉筆資料が発見されている現代では、当時の実用通行書体を少し格式ばって権威性をあらわした書とされています。「年」の縦画を長くのばしている書法は、漢代によく見られ、居延漢簡、石門頌、張景造土牛碑、李孟初碑、などにもみられ、この碑は早期の例としても注目できます。


【関連リンク】

孔子廟の魯孝王刻石(好古斎さんのサイト)
孔子廟の魯孝王刻石の写真が見られます。

清・楊峴「隸書魯孝王五鳳刻石」臨書(國立故宮博物院のサイト)
臨書作品が故宮博物院のサイトで見られます。

山東省曲阜の地図(旅情中国のサイト)
面白いです。


【関連書籍】


郙閣頌と刻石四種 (知られざる名品シリーズ第1期)

天来書院

「郙閣頌」の他、「魯孝王刻石」「莱子候刻石」「子游残碑」「楊陽神道闕」が掲載されています。



2013年2月4日月曜日

初唐の三大家、欧陽詢・虞世南・褚遂良


【時代背景】


 天下を統一した隋は、わずか37年で滅び、隋末の動乱を鎮圧した李淵(高祖)が天下を再統一し、唐王朝を建設しました。


李世民(太宗)
 李一族は、隋王朝の親戚関係にあった豪族でしたが、隋の終り頃、天下は混乱し各地で群雄が蜂起し、李淵の子李世民(りせいみん)は太原の留守居約であった父に挙兵をすすめ、都に乗り込み、父を唐王朝初代皇帝の位につけました。自分は秦王(しんのう)に封ぜられましたが、父をよく助け、唐王朝の基礎を確立することに努めました。李世民(太宗)は父の後を受け、国力を充実させ、その治世は唐代の中でも最も隆盛でした。

 唐は618年に起こり907年に滅びたので、約290年ほど続きました。日本では飛鳥時代から平安時代の半ば頃になります。遣唐使などの往来もあり、日本とも関わりの深い時代です。

 唐は文学史では、4つの時代に分かれていて、「初唐」「盛唐」「中東」「晩唐」と別れます。(初唐、盛唐、晩唐の3つにわけることもありますが、ここでは4つの区分にしたがいます。)


  •  初唐(しょとう) 618~712年
  •  盛唐(せいとう) 713~765年
  •  中唐(ちゅうとう) 766~826年
  •  晩唐(ばんとう) 827~907年


【初唐の三大家】

 唐の二代目皇帝、太宗は、中国史上最高の名君の一人と云われ、また能筆家としても知られ、王羲之の書を好みました。書にすぐれた臣下も多く、その中で最も有名なのが、欧陽詢、虞世南、褚遂良の三人です。この3人を「初唐の三大家」といいます。


欧陽詢(おうよう じゅん、557-641)
太子率更令(養育係)として書法を教授する。『九成宮醴泉銘』、『皇甫誕碑』などがある。
容貌すこぶる醜かったと伝えられている。

虞世南(ぐ せいなん、558-638)
太宗のブレーンとして仕えた。代表作に『孔子廟堂碑』がある。書は智永を師とした。


褚遂良(ちょ すいりょう、596-658)
太宗より信任が厚く、尚書右僕射まで栄達。『雁塔聖教序』、『孟法師碑』などがある。

 太宗(598-649)と三大家の年齢を見ると、太宗と褚遂良は2つ違いで、この二人より欧陽詢と虞世南は40ほど年上になります。太宗は宮中に弘文館を設け書を重んじました。弘文館では、欧陽詢と虞世南が書法を教授し、ここから多くの能書を輩出しました。


【参考書籍】


中国書道史年表
中国書道史年表
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玉村 霽山
二玄社

中国書道史事典 普及版
中国書道史事典 普及版
posted with amazlet at 13.02.04
比田井 南谷
天来書院

字と書の歴史
字と書の歴史
posted with amazlet at 13.02.04
江守 賢治
日本習字普及協会

【関連書籍】

決定版 中国書道史
決定版 中国書道史
posted with amazlet at 13.02.04
角井 博 鶴田 一雄 横田 恭三 大橋 修一 大野 修作 石田 肇 澤田 雅弘 中村 伸夫 菅野 智明
芸術新聞社

新訂 書の歴史-中国篇
新訂 書の歴史-中国篇
posted with amazlet at 13.02.04
伏見 冲敬 筒井 茂徳
二玄社


中国書人名鑑
中国書人名鑑
posted with amazlet at 13.02.04

二玄社


2013年1月29日火曜日

三蔵法師を讃えた『雁塔聖教序』

雁塔聖教序
がんとうしょうぎょうじょ


「大唐三蔵聖教之序」
作者:褚遂良(ちょ すいりょう)
撰文:序碑・太宗、序記碑・高宗
建碑:唐・永徽4年(653)
書体:楷書
現存:西安 慈恩寺大雁塔

 「雁塔聖教序」は、同大同型の二つ黒大理石の碑で、「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」からなり、この二碑を合わせての総称です。また、「慈恩寺聖教序」ともいわれています。

 この二碑は、建碑当初より左右対称に並べて置くことが意図されています。一つは太宗の撰文による「大唐三蔵聖教序」(序碑)で、八分額「大唐三蔵聖教之序」の8字が右から2行に配され、21行、毎行42字、全821字。もう一つは高宗の撰文による「大唐皇帝述三蔵聖教記」(序記碑)で、篆額「大唐三蔵聖教序記」の8字は左から2行に配され20行、毎行40字、全642字が刻されています。

 序碑には、太宗が撰文した仏教の伝来や、三蔵法師こと玄奘三蔵の功徳について述べられ、序記碑には、皇太子(後の高宗)が父太宗への理解と、玄奘の事業の意味とを述べています。褚遂良の傑作と云われる筆になり、万文韶(まん ぶんしょう)が刻した碑です。


「大唐三蔵聖教序記」
 永徽3年(652)、大慈恩寺に五層の雁塔が建てられ、玄奘がインドから持ち帰った教典が保存され、その翌年、塔の最上階にこの二碑が置かれた。しかし、雁塔は崩壊し、則天武后の長安年中(701-704)、新たに七層の塔を建立し、初層南面入口の東に序碑、西に序記碑を置きました。

 清代に文中の、「治」の末画の欠字を補刻し、同時に「玄」の末点を削ったことから、この2字から拓本の新旧がを区別している。


【参考書籍】

雁塔聖教序[唐・褚遂良/楷書] (中国法書選 34)
褚 遂良
二玄社

宋拓(高島コレクション)で構成されています



【関連書籍】




雁塔聖教序 (唐代の楷書 (5))
褚遂良
天来書院




褚遂良の「褚」という字は、SHIFT JISコードでは入っていない字なので、ネット上では、「チョ遂良」とか「〓遂良」になっていることがあります。Unicode(UTF-8)には入っている文字です。

2013年1月23日水曜日

唐代第一といわれる『孔子廟堂碑』


孔子廟堂碑
こうしびょうどうひ

孔子廟堂碑(唐拓孤本)
撰文・書丹:虞世南(ぐ せいなん)
建碑:唐・貞観3年(629)前後
書体:楷書
現存:拓本のみ

 「孔子廟堂碑」は、唐の太宗が、儒教宣揚のため武徳9年(626)、長安(現在の陝西省西安)の国子監の孔子廟を再建した記念碑。初唐の三大家の一人である虞世南が書丹したもので、品格において唐碑第一とされる作品です。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」とならび、古来、多くの人に愛されている名品です。

 太宗の命を奉じた虞世南が、聖廟の重修の由来を撰文し、自ら書いた碑で、虞世南の楷書碑として(拓本が現存する)唯一のものです。建碑の年代は定かではないですが、孔子廟が完成した貞観2年(628)から貞観4年(630)の間とされています。虞世南が70歳の頃になります。

 碑は建立後間もなく貞観年中に火災に遭って破壊され(唐末か五代の頃に戦乱で破壊されたとも云われている)、現存はしていません。拓本は、原石拓が唯一本、唐代の旧拓が三井聴氷閣蔵となっているが、これも不完全なもので、失われた約1/3は覆刻(ふっこく)で補ったり、あるいは塗って作字したもので埋めてある。

 現在見られる他の拓本もすべて履刻本で、唐拓本の欠字の補充に用いられている「陝西本」と、「城武本」が有名です。

・陝西本(せんせいぼん)
宋初に、原本(唐の原石の拓本)から王彦超が覆刻したもの。西安碑林に現存するが、石は3つに割れている。

・城武本(じょうぶぼん)
元の至正年間(1341年 - 1367年)に、山東省の定陶県で黄河が決壊したときに出土した碑である。陝西本とは行数や空格(空欄)が異なっている。

 拓本の冒頭に見られる「孔子廟堂碑」の五字も、書風からみて虞世南の書ではないとされています。かなりの字数が虞世南のものでないにも関わらず、唐代第一とされているわけは、学ぶにしたがって、より鮮明になってくることと思います。


【関連書籍】




孔子廟堂碑 (唐代の楷書 4)
虞 世南
天来書院


臨書を楽しむ〈2〉虞世南孔子廟堂碑
石永 甲峰 森嶋 隆鳳 福光 幽石 成瀬 映山
二玄社







2013年1月20日日曜日

楷法の極則といわれる『九成宮醴泉銘』


九成宮醴泉銘
きゅうせいきゅう れいせいんめい

作者:欧陽詢(おうよう じゅん)
建碑:唐・貞観6年(632)
撰文:魏徴
書体:楷書
現存:陝西省麟遊県

 「九成宮醴泉銘」は、唐代の階書の代表作として、古来「楷法の極則」と云われている名品です。虞世南の「孔子廟堂碑」とならび、とても多くの人に愛されています。

 九成宮は、唐代皇室の離宮のことで、もとは随の文帝が造営した仁寿宮(じんじゅきゅう)という宮殿でした。唐の太宗がこれを修復して九成宮と改め、太宗、高宗らがここに避暑しました。貞観6年(632年)、太宗は皇后を伴い離宮内を散歩中、偶然に西方一隅に潤いのあるところを発見し、杖でつつくと甘醴な水が湧き出てきました。九成宮は高所にあり、もともと水源に乏しいという欠点があったのですが、この醴泉の出現は唐朝の徳に応ずる一大祥瑞であると感じ、帝はすぐさま記念碑の建立を命じました。

 撰文には検校待中の魏徴(ぎちょう)が、書丹には唐三家の一人、欧陽詢(おうようじゅん)がその任にあたりました。魏徴53歳、欧陽詢76歳の時でした。銘文は華麗な四六駢儷体(べんれいたい)で全1108字、碑石は全24行、毎行50区に区画され、上部に「九成宮醴泉名」2行6字の陽文篆額があります。

 「九成宮醴泉銘」は、古来、その拓本を鑑賞する人がとても多く、宋代より翻刻が行われていたともいわれており、真偽、善悪とりまぜて、世に流布されています。質の良い拓本として、端方(たんほう)旧蔵の南宋拓。最旧拓とされている北京故宮博物院所蔵、明の季祺(りき)旧蔵本があります。

 碑は、陝西省西安の西北 150kmにある麟遊県からさらに西数kmの天台山という深い山中にあり、原碑は今も碑室に覆われ保護されているといわれています。


【関連書籍】




九成宮醴泉銘 (唐代の楷書 2)
欧陽 詢
天来書院





漢字の音読み、「呉音」、「漢音」、「唐音」。


最初に伝わった漢字の音は、長江下流域の呉の地方の発音でしたので「呉音(ごおん)」とよばれます。呉音は、朝鮮半島の百済(くだら)を通じて渡来したので「百済音」、対馬を経由したので「対馬音」とも云われます。

 「漢音(かんおん)」は、その後の隋・唐の音を遣唐使や留学生が長安(現在の西安)や洛陽地方から伝えられたものです。当時中国を一般に漢(から)と言っていたので、漢代の音ではないですが漢音とよびます。朝廷はこの漢音を「正音(しょうおん)」として尊び、勅令を出して、以後の読書は漢音でせよと唱導したため、日本における漢字音は漢音が主流となりました。『古今』を「コキン」と読むのは、漢音で読んでいるわけです。

 時代が下って、中国の宋の時代になると、日宋貿易や禅僧の往来などによって、新しい中国音が伝わって来ました。当時は中国を唐(から)と言っていたので「唐音(とうおん)」ということになりました。ただし、現代では「唐宋音」とも「宋音」ともよんでいます。その後、明代、清代の音も入ってきますが、これらも大きく唐音に入れています。

 漢文はふつう漢音で読みますが、慣用で呉音が定着している言葉も混じっていて、新来の語彙の中には、唐宋音がそのまま使われているものもあります。これが、日本で使われている漢字音が複雑になっている原因でもあります。

 呉音で読むと変な例として、「美人」は「ミニン」、「白金」は「ビャクコン」、「埋没」は「マイモチ」となります。これはとても違和感があります。

 呉音が定着している例は、人間(ニンゲン)、六月(ロクガツ)、天井(テンジョウ)、胡麻(ゴマ)などがあります。これを漢音で「ジンカン」、「リクゲツ」、「テンセイ」、「コマ」と読むととても違和感があります。

 唐宋音には、長崎や京都宇治の禅寺などから出た言葉で次のようなものがあります。
和尚(オショウ)、喫茶(キッサ)、椅子(イス)、簞笥(タンス)、行燈(アンドン)、行脚(アンギャ)、算盤(ソロバン)… 

 漢字字典などには、音の種類も記載されています。呉音、漢音、唐音の他に慣用音などもありますので、とても複雑ではありますが、音から伝わった時代背景を見てみるのも面白いかもしれません。「喫茶」、「世間」など仏教由来の言葉が、唐宋音、呉音になっているので、仏教用語は全て呉音ということでもないわけですが、呉音で読まれることが多いようです。


【参考書籍】





2013年1月18日金曜日

漢字はどのくらいあるのでしょう?

 漢字はどれくらいの数があるかというと、1994年に刊行された『中華字海』(冷玉龍編)に収録されたの85,000字あまりだそうだ。日本の『大漢和辞典』(大修館書店)が、およそ5万字なので、約1.5倍の量になる。たぶん、これだけの文字を全部使う人はいないだろうし、これだけの文字を持っている文化も無いのではなかろうかと思う。

 歴史的にみると… (詳細はWikipediaにリンクしてますので、そちらで...)


 『説文解字 後漢・許慎 (100年頃) 9,353字

 『玉篇 梁・顧野王 (543年頃) 16,917字
 『類篇 宋・司馬光 (1066年) 31,319字
 『字彙 明・梅膺祚 (1615年) 33,179字
 『康煕字典 清・張玉書等 (1716年) 47,035字
 『大漢和辞典 日本・諸橋轍次 (1955年) 49,964字
 『漢語大字典』 中国 (1990年) 約56,000字
 『中華字海 中国 (1994年) 約85,000字

 なるほど、時代が進むにつれ、漢字の数は増え続けているのですね。


 これだけあると、掲載されてはいるものの、誰もつかったことが無い漢字というのもあるのかもしれません。もちろん、全部覚える必要は無いと思います。必要な文字は学び、必要な意味を学び、教養を深め、人生をより良いものにしていければ良いのです。


 『説文解字』ができてから、2000年近くの時を経て、10倍ほどの量になった漢字。いや、なってしまった、のかもしれません。今後の漢字はどのようになっていくのでしょう。楽しみでもあります。


【参考書籍】



漢字道楽 (講談社学術文庫)
阿辻哲次
講談社

とても気軽に読めて、漢字が楽しくなる本です。著者の見識の深さ・広さに触れるのも楽しいです。座右にぜひ。


【関連書籍】


大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付
諸橋轍次 
大修館書店




漢字は奥深いです。

2013年1月17日木曜日

歴史ロマン溢れる『石鼓文』

石鼓文
せっこぶん

石鼓文(先鋒本)
時代: 秦(東周時代)
筆者: 不詳
書体: 篆書(大篆)
現存: 北京故宮博物院

 石鼓文は、唐の初期に陳倉(陝西省宝鶏市郊外)の田野で発見された10基の花崗岩の石碑(およびそれに刻された文字)で、60cmぐらいの太鼓に似たその形状から石鼓と呼ばれている。

 2200年以上前の石刻で、中国に現存する最古の石刻になり、出土したときから破損・磨滅があり、剥落(はくらく)が激しく、発見後は孔子廟に置かれたが、戦乱で散逸し、長旅を経て現在は北京の故宮博物院に収められている。このようなことから、現在では第8鼓などは判読できなくなっている。第6鼓は再発見された時には石臼として使われていたという話も面白い。



 書体は、秦の小篆に対して大篆と称し、また籀文(ちゅうぶん)・籀篆ともいう。時代については諸説ありますが、唐蘭氏の秦の霊公3年とする説が有力です。文章はかなり難解ですが、今日では、天子が地方を巡狩するときの情景を、四言を基本とした韻文に詠じたものあることがわかっている。全文は700文字前後あるはずと考えられていますが、宋拓本で460~500文字程度が見られ、文字資料としてたいへん貴重なものとなっています。






・范氏天一閣本
北宋時代の拓本で462字あり、古くより公開されているため、のちの刻本やレプリカのモデルになっている。1860年、内乱の際に亡失している。

明時代の金石家・蒐集家だった安国は十種もの石鼓の旧拓本を入手しており、特に優れた北宋拓の三本を、軍兵の三陣になぞらえて「先鋒本」、「中権本」、「後勁本」と名づけ秘蔵していた。いずれも、東京・三井文庫所蔵となっている。

・先鋒本
最古の拓本とされ、上下2帖からなり、毎葉2行、1行3字、480字が読み取れる。東京・三井文庫所蔵。

・中権本
毎葉3行、1行5字、不明瞭ながら500字が読み取れる最多字数の拓本で、法書としてこの拓本がよく取り上げられる。

・後勁本
毎葉3行、1行4字、491字が読め、法書としてよく供される。

 いろいろな歴史ロマンが溢れる石鼓文です。呉昌碩の臨書作品は、石鼓文の真を得ていると云われれいます。


臼として使われてしまった石鼓文


 夏目漱石と石鼓文が繋がっていたり、石鼓文自体にも諸説が多く、まだ情報整理がついていない状態で書いています。追って整理・修正していく予定です。


【関連書籍】


漱石と石鼓文